かくれ念仏・さつま開教の歴史

禁止された浄土真宗の教え

 親鸞聖人によって開かれた浄土真宗の教えは、本願寺第8代宗主・蓮如上人の時代に全国に広まりました。
 しかし、鹿児島では、1597(慶長2)年に浄土真宗を禁じる掟書が出されてから約300年もの長きにわたり浄土真宗の信仰が禁じられました。
 それは、浄土真宗の教えがすべてのいのちは阿弥陀如来の前には等しく尊いという教えであり、為政者には容認し難いものであったからです。
 事実、加賀(石川県南部)の一向一揆のように、民衆が一国の支配体制を覆すほどの抵抗と団結を引き起こした例もあり、領民の心を統制し封建体制を確立せねばならない当時の薩摩藩にとっては、その教えは脅威となるものでした。

命を賭した念仏の相続を…

 しかし、どれほど厳しい禁制であっても、人々の信仰を奪うことはできませんでした。かくれ門徒の人々は「講」と呼ばれる集まりを組織し、京都の西本願寺と密かに連絡を取り、教えを学び護り続けました。
 夜更けに人目を忍んで集まり経を唱えたり、洞窟のような隠れた場所や船上で法座を開いたり、さまざまな工夫を凝らして念仏を称え続けたのです。
 浄土真宗の寺院はなく、真宗僧侶もいない状況の中で、人々は信仰の灯を護り、大切な教えを語り継いでいったのです。
 これが、後に「かくれ念仏」と呼ばれる信仰形態です。信仰が発覚すればご本尊や経典は没収され改宗を強要されます。弾圧が特に厳しい時期には、命を賭した念仏相続でありました。

涙石、苦しみの涙染みこんで

涙石(鹿児島別院・境内)

 鹿児島別院には、苦難の歴史を今に伝える「涙石」があります。この石は、現在の鹿児島市犬迫町あたりで、浄土真宗を密かに信仰していた「講」の世話役が役人に捕らえられ、役人による石責めの尋問に使われた石と伝えられます。
 苦しみのあまり流した涙が染みこんだことから「涙石」と呼ばれるようになりました。
かくれ門徒はこのような苦難の中にあっても信仰を護持したのです。

待ち望んでいた「開教」へ

県参事より各地域戸長へ発布された信教の自由令

 江戸の世が終わり、明治新政府へと体制が移り変り、廃藩置県によって行政区域も変更されました。しかし、鹿児島県では依然として浄土真宗は禁止されていました。そのような中、解禁への大きな転機となったのは、明治9年の鹿児島県と宮崎県の合併でありました。これにより同じ行政区において、一方は許され、一方は禁止されているという状況が発生しました。
 そして、明治9年9月5日に「信教の自由令」が発布され、ついに鹿児島の人々も公に浄土真宗を信仰することが許されたのです。鹿児島別院ではこの日を記念し、毎年「さつま開教記念法要」をお勤めしています。

多くの方々が参拝する『さつま開教記念法要』

 当時、解禁を待ち望んでいた京都の西本願寺と鹿児島のご門徒方は、ただちに開教事業に着手しました。2年後の明治11年10月21日には、鹿児島別院が建立され、同13年には県内各地に84カ所の説教所が開設されました。
 現在鹿児島県には、192カ寺の西本願寺の寺院があります。これもひとえに厳しい禁制の中にも、み教えを護り相続されてきた先達念仏者のおかげといえましょう。

時代は移り変わるとしても

 真宗禁制の歴史は「かくれ念仏」や「さつまの法難」として、今も鹿児島の各地で語り継がれています。時代は移り変わるとしても、命がけで信仰を護った念仏者のご苦労や、禁制下および開教後に布教に尽力くださった開教僧方の功績は、次代に継承されなければなりません。
 令和8年、「信教の自由令」が発布されてから150年の節目を迎えます。鹿児島教区・鹿児島別院では、このたびの「開教150年」を機縁として、「念仏の新たなる歩み」を進めて参ります。先人のご苦労を偲び、命がけで護り伝えてこられた浄土真宗のみ教えの輪を、いま一度私たち一人ひとりが喜び、大切にしていく尊きご縁としてお迎えいたしましょう。

PDFダウンロード