新春特別対談「時を越え 和を結ぶ」

 明けましておめでとうございます。
 1876(明治9)年9月5日、鹿児島に「信教の自由令」が発布され、約300年間の念仏禁制が解かれ、浄土真宗の信仰が許されてから本年で150年の節目を迎えます。鹿児島教区(県内寺院169ヵ寺)及び本願寺鹿児島別院では、10月26日から28日の3日間、本願寺第25代専如ご門主をお迎えして『さつま開教150年記念法要』をお勤めすることになっており、現在法要委員会において準備が進められています。
 この法要は、スローガンを「光はここに 光はここから ~いのち礼讃 そして念仏の新たな歩みへ~」とし、法要修行や記念行事の開催とともに、教区と別院が未来に向かって「自他ともに心豊かに生きる社会」を目指して新たなる歩みを進めることを目的としています。その重要な取り組みの一環として、この度の法要を機に、開教より途絶えていた旧薩摩藩・島津家との関係が回復できればとの願いのもと話し合いを進めて参りました。そして島津家第33代当主の島津忠裕様に深いご理解をいただき、来る10月27日の法要に参拝、祝賀会にもご出席いただくことになりました。
 令和7年12月10日に、吉川孝介輪番、井上從昭法要委員長、正覺智成副委員長が仙巌園内の島津興業を訪問し、忠裕当主に法要の案内状を直接お渡ししました。そして吉川輪番を交えて、忠裕当主にお話を伺いました。

(左)島津 忠裕しまづ ただひろ
島津家第33代当主
株式会社島津興業 代表取締役社長

(右)吉川 孝介きっかわ こうすけ
本願寺鹿児島別院輪番
鹿児島教区教務所長

(司会)平島 義仁ひらしま ぎじん
法要常任委員・相談役


浄土真宗本願寺派
鹿児島教区・鹿児島別院
さつま開教150年記念法要 趣意書

法要スローガン
“光はここに 光はここから”
~いのち礼讃 
そして念仏の新たな歩みへ~

 光に映えて、朝の鹿児島別院の甍は白銀に輝いています。光に映えて、夕べには妻飾りが黄金色に輝いています。1876(明治9)年9月5日、「信教自由の令」発布によって、さつまにおける念仏禁制が解禁されて以来、別院この地は僧侶や門徒の希望と伝道の光となって、開教の波は県下に広がり、そのみ教えは人々の心の奥底に染みこんで、寺院192ヵ寺(鹿児島別院22出張所・教区169ヵ寺)の鹿児島教区として発展してきました。そして本願寺第21代明如宗主はその開教のいとなみを根底からお支えくださり、さらに鹿児島の発展にもご尽力くださいました。
 阿弥陀如来の前にはすべてのいのちは等しく尊いという浄土真宗の教えは、藩の体制を確立せねばならない当時の薩摩藩にとっては容認し難いものでした。その施策は約300年間続く念仏禁制となり「かくれ念仏」「法難の歴史」として今に残りますが、それはまさしく、阿弥陀如来の智慧と慈悲の光に照らされ護られ励まされ、共につながり支え合ったさつま念仏者の尊き歴史であります。時に過酷な弾圧の中で、如来の光はどれほど念仏者の心のより所となり、どれほど力となったことでありましょう。
 開教より150年を経た今日、科学技術の進歩とともに人々の生活は豊かになりましたが、一方では世界各地での紛争、大規模災害、気候変動、教育や富の格差など、地球規模で深刻な「いのち」の問題が山積しています。阿弥陀如来の光はまた、これらの人間の迷いの闇を破り、社会の暗闇を照らし、同時にすべてのいのちを摂取するはたらきでもあります。
 光はここに、光はここから…この度のご法要をお迎えするにあたり、開教にいそしまれたすべての方々のご苦労を偲ぶとともに、先達念仏者方のご功績に深く感謝し、今に輝くそのいのちをお讃えいたしましょう。そしてその歴史に学びつつ、鹿児島別院を主軸とする教区の一寺院一寺院がさらに地域社会の光となるよう、「自他ともに心豊かに生きる社会」をめざして、念仏の新たなる歩みを進めて参りましょう。

【参考】
「光はここに 光はここから」…光は、阿弥陀如来の智慧と慈悲を表すとともに、禁制時代かくれ門徒のより所となった念仏の教えを表します。そしてこの光は時と場所を越えて、いつの時代にもいかなる人をも照らす真実の教えを表します。さらにこの光は、開教と同時に伝道の拠点となった別院の地を示し、県下各地域に念仏の道場として建立された一つ一つの寺院を表しています。


仏神敬うこと大切に

家にのこる史料で歴史を学ぶのが楽しみのひとつです。

司会 今日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。さて、島津忠裕さんは2024年12月31日にお父さまの修久様の後を継いで島津家の第33代当主に就任されました。また同時に現在、株式会社島津興業の代表取締役社長ということですが、普段はどのようなお仕事・生活をされているのでしょうか。

島津 当社(島津興業)の前身である薩摩興業株式会社が設立されたのが大正11年(1922)1月ですので、間もなく設立104年を迎えます。仙巌園・尚古集成館の運営を中心とした観光業の他、薩摩切子の製造販売、ゴルフ場、林業、砕石、不動産、建設の諸部門があり、「鹿児島とともに歩み鹿児島とともに進む」会社でありたいと、日々経営にあたっています。
 また、島津家歴代や殉死者の方々の御霊を祀る鶴嶺神社の宮司として、先祖の祭祀をつとめさせていただいております。仕事の合間には、家にのこる史料をながめながら歴史の勉強をするのが楽しみのひとつです。学べば学ぶほど、他の大名家とは違う鹿児島の地域性が見えてきます。

司会 歴史ある島津家のご当主であると同時に、多角的な事業を展開する大きな企業の社長さんでもあるわけですね。毎日お忙しいことと思います。
 さてこの度、鹿児島教区並びに鹿児島別院が今年「さつま開教150年記念法要」をお勤めするにあたり、開教より関係が途絶えていた島津家との関係回復を願って、鹿児島別院の方からご相談をされたとのことですが、吉川輪番はどのようなお考えのもとにそうされたのでしょうか。

吉川 この度のご法要は、法要趣意書にありますように、約300年間という長い間、時に過酷な弾圧があった中で、浄土真宗のみ教えを護りぬいてくださった先達念仏者の方々や、開教後その教えを鹿児島で広めるために努められた方々のご苦労を偲び、その功績に深く感謝するためのものでありますが、それと同時に今法要は、私たち念仏者が新たなる歩みを始めるためのものでもあります。具体的には、開教150年の節目を機縁として、鹿児島における浄土真宗の歴史をあらためて顧みつつ、同じ鹿児島の地にありながら、直接的な交流が途絶えていた島津家の皆さまとの関係を回復し、ともにお話をさせていただく中で、私たち念仏者の新たなる歩みとともに、鹿児島県のよりよい未来に向かって取り組んでいけたらという法要委員会における話し合いを受けてのものです。

司会 ご当主におかれては、そのお声かけに対して、どのような感想を持たれたでしょうか。

島津 私は、明治30年に大谷光瑞門主が、新門(門主の次期後継者)の折、高祖父・島津忠義と面会された時に関係回復ができたと考えており、その記録も島津家に残されています。代々島津家は、仏神を敬うことを大切にしてまいりました。菩提寺は、現在の鹿児島市立玉龍中・高等学校のところにありました玉龍山福昌寺でした。しかし、明治になって全国的な神仏分離運動のなかで、明治2年島津忠義夫人の死去にあたり葬儀を神式で執り行うこととなりました。したがって以来島津家は神道に改めましたが、浄土真宗に対しても理解を深めてまいりたいと思います。

島津忠義公が大谷光瑞新門(当時)と対面された謁見の間

司会 ただ今、ご当主より明治30年に大谷光瑞門主が島津家を訪ねられたとのお話がありましたが…

吉川 そうなんです。実は明治9年に信教の自由令が発布され、人々の信教の自由は保障されたのですが、それより開教が一気に進んだわけではなかったようです。各郷各村には指導者である士族層がおられて、浄土真宗についての理解を得ることができずに開教は困難を極めたようです。そこで、その事態を心配された当時新門だった本願寺第22代大谷光瑞ご門主は、明治30年5月19日に来鹿し、福昌寺跡の島津家歴代のお墓に参拝した後、ここ磯の本邸を訪問して、当時のご当主である島津忠義公と面会されました。
 先ほどご当主がおっしゃったとおり、その面会によって親善の道は開かれたのですが、当時はまだ禁制下で信仰を護った信者やその子孫の方々がいらしたり、別院においてもその功績を讃える法要や行事が長年続いたりで、その関係の回復を受けとめて、直接交流を進める環境が整いませんでした。一〇〇有余年の時を経てようやくその時が来たように思っています。

司会 時代はさかのぼりますが、この鹿児島に浄土真宗の念仏の教えが最初に伝わったのは1506年頃と言われます。禁制された後、取り締まりが厳しかった時代、緩やかだった時代はあるのですが、薩摩藩によって浄土真宗の教えは約300年間禁止されました。ご当主は、藩としてそうせざるを得なかった原因は何だったのか、どのように受け止めておられるでしょうか。

宗門の多くの方々へ

これから新たな交流を…

島津 浄土真宗を正式に禁制としたのは島津義弘です。慶長2年(1597)の文書が残っており「先祖以来御禁制の儀」と記されています。
 先祖とは、義弘の祖父島津忠良(日新斎)で、忠良はキリスト教・日蓮宗・茶の湯も好ましからざるものと考えていたようです。しかし、忠良の子の貴久はフランシスコ・ザビエルを受け入れ、種子島氏は日蓮宗を信仰し、武将の間では茶の湯が盛んにおこなわれました。
 浄土真宗の禁制は、おそらく加賀の一向一揆のように信者の団結が施政者に向かい、後に織田信長に対抗した石山本願寺が戦国大名に並ぶような力を持っていたからだと思います。
 現実には、薩摩藩の初代藩主となった義弘の子の島津家久が能楽の師匠として本願寺の下間少進の弟子であった中西長門を千石の石高で召し抱えたり、二代藩主島津光久も本願寺と往来がありました。一方で、江戸時代中期頃から藩の財政が逼迫してくると、隠れ念仏衆の本願寺への莫大な金銭の上納が問題になったこともありました。時代によって禁制にも濃淡のあったことがわかります。当時の為政者としては、そうせざるを得ないと考えた事情もあったと思いますが、長きにわたって念仏の教えを求める方々が苦難を強いられたことは、後世に生きる者として重く受け止めなければならないと感じております。

吉川 歴史を顧みますと、私たちの宗門も含めて、その置かれた立場や役割、経済や社会情勢、さまざまな環境によって、過去にその対応を余儀なくされることもありました。ただ今のご当主のお言葉をいただいて、私自身深い感銘を受けました。私たち宗門内の多くの方々にぜひともお伝えしたいと思います。 

司会 歴史に関連してもう一つご当主にお伺いしたいのですが、昨年の1月16日に、滋賀県彦根市と鹿児島市が交流連携協定を結びました。彦根藩・井伊家と薩摩藩・島津家は、1600年の関ヶ原の戦いでは、東西に分かれて相まみえた間柄です。その合戦から425年を節目に、両家の子孫が立ち会ってお互いの理解や友情を深め、今後両県の観光や文化、経済の発展に寄与していくことが話し合われたそうですが、そのことについて思いをお聞かせください。

島津 井伊家と島津家とのご縁は、実に400年以上の歴史を持ちます。関ヶ原の戦いの後、井伊直政公が島津家の本領安堵のためにご尽力頂いたことは、今日に至るまで忘れることのできない恩義として深く感謝しております。
 また、幕末における井伊直弼公と島津斉彬は、ともに決して恵まれたとは言えない世子時代を過ごしながらも、深く学問を修め、広く人脈を築き、日本の将来についての見識を養いました。家督をほぼ同じ時期に襲封した後、直弼公は伝統的な価値観を重んじつつ幕政の立て直しに尽力され、斉彬は西洋の科学技術を積極的に取り入れて近代化事業を推進しました。二人は政治面こそ立場を異にしましたが、国の発展を願う強い信念は共通していたと推察しております。
 このような歴史的事実を踏まえて、彦根市と鹿児島市が交流協定の締結を機に、未来に向けて文化、教育、経済など、さまざまな面で交流を深めていくことを心からご期待申し上げております。

ご縁思い起こしつつ

司会 ありがとうございます。今のお話にもありましたとおり、島津家は鎌倉時代に始まり、長きにわたって薩摩藩を治めた武家であり、戦国時代に九州を席巻し、江戸時代には全国有数の雄藩として明治4年の廃藩置県まで続きました。仙巌園には多くの文化遺産が今に残り、特に28代斉彬公は、殖産興業政策を推進するとともに、西郷隆盛など明治維新の原動力となった若い人材を育成した藩主として、今でも多くの県民に親しまれています。
 一方で、鹿児島における浄土真宗は、薩摩藩の時代は取り締まりを受けた側ではありますが、明治9年の開教後、多くの方々の理解と協力を得て、その教えは多くの方々に広まり、過去に行われた南日本総合研究所の調査では、県民の7割近くの方々が何らかの形で浄土真宗に関わりがあるのではと言われています。
 この度、それぞれの立場や思いを尊重しながら、今後未来発展的に、新たな関係・交流を持つことができればと思いますが、ご当主としてどのようなことを期待されますか。

島津 鹿児島は、古来より海に開かれた地でありました。したがって、世界の情勢や変化に臨機応変に対応してきました。島津斉彬の近代化事業も日本の独立を守るという目的をもっており、磯に設置された工場群では1200人の人々が働いていました。
 鹿児島別院の記録によれば、大谷光瑞新門が島津忠義に面会の後、浄土真宗に対する士族の人々の考えが改まり、新寺院の建設も急速に地域の事業として進展したということですが、このような変化への対応は鹿児島人の気風かもしれません。もうひとつは、士族の中にも浄土真宗を密かに信仰していた人々があったともいわれています。これからの新たな交流が、鹿児島の発展と未来につながればと思っています。

吉川 ご当主は「町づくり」について研究され、また見聞を広めておられるとお聞きしました。今後、そのような視点からもいろいろとお話を聞かせていただき、鹿児島の皆さま方のために共に尽力できたらと思っています。

司会 さて現在、情報通信の発達によって世界の人々がより身近かに、お互いの思いが通じ合う時代になったのに、一方では、SNSなどを通じて対立や批判の応酬などがあり、また国家間においても分断や争いが絶えません。
 元来仏教は、お釈迦さまの時代から「兵戈無用ひょうがむよう」といい、武器を手に取ることのない平和で心豊かな社会の発展に努めることを目的としています。そのようなことから本年の法要に向けて、この島津家と鹿児島別院・教区との交流を通して、鹿児島から心温まるニュースを皆さまに届けることができればと思います。現在の社会情勢を踏まえつつ、ご当主からの思いをお聞かせください。

島津 島津斉彬は、「人心の一致一和」をはかることが、政治の最も大切な要目であると言っています。そのためには、ひとりひとりの心が平和で豊かでなければなりません。
 しかし現代においても、世界各地で国家間の対立や争いが起こっています。宗教の問題が根底にあるものも見受けられます。一日も早く争いの火が消え、人々に平安な日常が戻ることを願っております。SNSの問題もまた、人を思いやる気持ちをもっていただければ、ずいぶん様相が変わてくるのではないかと感じています。
 本願寺鹿児島別院と島津家との交流が、「人心の一致一和」を体現し、鹿児島から心温まるニュースをお届けする一助となれば幸いです。

吉川 時勢を的確にとらえたお言葉です。本当に一人ひとりが平和な社会を目指してお互いをよく理解し、心を一つにして協力し合うことが大切なことですね。
 最後に、私からご当主にお伺いいたします。この度、ご当主に本年の法要にご臨席をいただけることは、門信徒をはじめ私たち宗門の多くの方々がお喜びになると思います。本年の法要のご臨席に向けて思いをお聞かせいただけますか。

島津 明治9年に浄土真宗の禁制がとかれてから今年で150年ということで、ご門主をお迎えしてのご法要にご案内いただき感謝申し上げます。ご門主のお祖母様は徳大寺家から大谷家へ嫁がれたとうかがっておりますが、私の曾祖母も徳大寺家から島津家に嫁いでおります。そのようなご縁も思い起こしながら、お目にかかれますことを楽しみにしております。関係者の皆様には、ご準備など何かとご苦労も多いことと存じますが、よろしくお願い申し上げます。

吉川 ありがとうございます。ご当主のご臨席を心よりお待ちいたしております。

司会 今日はお忙しい中、貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。

左より正覺智成法要副委員長、吉川輪番、島津当主、井上從昭法要委員長(仙巌園にて)

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